三省堂大辞林うえすぎ-かげかつうへすぎ―【上杉景勝】(1555-1623)安土桃山・江戸初期の武将。長尾政景の次男。上杉謙信の養嗣子。会津中納言。豊臣秀吉の五大老に列し、会津一二〇万石を領したが、関ヶ原の戦いで石田三成と結んで敗れ、米沢三〇万石に減封された。辞書の索引用語の索引ランキング戦国武将覚書上杉景勝(うえすぎかげかつ)1555~1623○長尾氏卯松喜平次顕景弾正少弼権中納言参議◇父:長尾政景養父:上杉謙信室:武田信玄女、四辻大納言公遠女子:上杉左近衛少将定勝養子:上杉(畠山)義真上田長尾氏政景の二男(兄夭折)であり、子のない謙信の養子となる。謙信死後、同じ養子で姉婿の景虎との争い(御館の乱)に甲斐・武田氏の援けを受けて勝利、家督を得る。後豊臣秀吉に降って朝鮮の役等に出陣、五大老の一人となって会津120万石を得た。関ヶ原の戦いの際には、西軍方として徳川家康と争うが、西軍敗北の報に降伏。米沢30万石に減封されるが、家臣は禄が減っても景勝の下を去ろうとしなかった。69歳で没。寡黙な質で、生涯に見せた笑顔は一度切りといわれる。辞書の索引用語の索引ランキングウィキペディア上杉景勝出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2010/06/2217:53UTC版)凡例上杉景勝上杉景勝像(上杉神社蔵)時代戦国時代から江戸時代前期生誕弘治元年11月27日(1556年1月8日)死没元和9年3月20日(1623年4月19日)改名卯松(幼名)、長尾顕景、上杉景勝別名通称:喜平次受領名:越後宰相中将、越後中納言、会津中納言尊称:御中城様法名:宗心戒名覚上院殿法印権大僧都宗心墓所上杉家廟所景勝廟松岬神社(山形県米沢市)高野山清浄心院(和歌山県高野町)など官位弾正少弼、越後守、従四位下左近衛権少将、従三位、参議、近衛中将、権中納言、贈正三位主君上杉謙信→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠藩陸奥会津藩主、出羽米沢藩主氏族平姓長尾氏→藤原姓上杉氏父母父:長尾政景母:仙桃院(長尾為景の娘)養父:上杉謙信兄弟長尾義景、清円院(上杉景虎継室)上杉景勝、妹(畠山義春正室)義兄弟:畠山義春、上杉景虎、山浦景国妻正室:菊姫(武田信玄の娘)側室:桂岩院(四辻公遠の娘)子定勝養子:義真(畠山氏)[1] 表・話・編・歴 上杉景勝(うえすぎかげかつ(長尾顕景(ながおあきかげ)または長尾景勝(ながおかげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。長尾上杉家(米沢上杉家)二代で、上杉宗家(重房を初代として)17代目[2]。本姓は平氏後に藤原氏、豊臣氏を経て藤原氏となる。家系は桓武平氏の血をひく長尾氏の生まれで、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏となる。[3]・逸話4関連書籍5関連作品6出典7関連項目生涯出生から家督争いまで詳細は「御館の乱」を参照弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる[4]。生母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院。彼は輝虎の甥に当たる。長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564年)の父・政景の溺死を受け、春日山城に入
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